20220207 きほーて
ことばは本来的に相手とコミュニケーションするためにある。
文字はことばを記録し、時間的空間的により広く共有するために、発明された。
ここで、相手とのコミュニケーション手段としてのことばを「ことば」、文字と一緒になったことばを「言語」と表現する。
文字が発明されたことの意義はとてつもなく大きい。時間・空間を超えて、記録できる。伝達できる。先人の知恵や工夫や発見や実験結果や思想や思いや考えなどを利用できるようになる。科学や文明の発達には不可欠であろう。なので、「言語」はとても大切だ。
2歳の子が、「すべりだいで、とろんだの」と言っていた。普通に日本語を話す人ならば、ああ、滑り台で転んだんだな、とわかる。この「すべりだいで、とろんだの」ということばは、コミュニケーションとしては何の問題もない。伝いたいことをしっかりと伝えられている。コミュニケーションとしての「ことば」として、しっかりと働いている。しかし、「言語」としては誤りととらえられてしまうだろう。「とろぶ」「とろんだ」というのは「間違い」とされてしまうだろう。
文字の発明は、偉大である。一方、文字の発明によって、「言語」は標準化されてしまう。標準化されないと、時間的、空間的にその示したい内容が伝わらないから。そして、標準化されると、そこで、正誤が生じる。コミュニケーションとしては全く問題のない「とろんだ」ということばは、標準化された「言語」としては誤りとなってしまう。文字が発明され、「ことば」が「言語」化すると、「正誤」が生じ、言語は学習・勉強の対象となる。本来的な「ことば」は、周りの環境で話されることばから、自然に獲得していくものだが、「言語」は正誤のある学習対象になってしまう。
コミュニケーションとして成立するためには、それなりに正しい発音やアクセントは必要であろう。でも、コミュニケーションとして成立するための、「正しい」発音やアクセントはかなり幅の広い、あいまいさの大きいものであろう。でもそれを試験とか成績とかの対象にすると、そのあいまいさや幅は大幅に狭められてしまう。
例えば、高校入試でスピーキングテストをすると、たとえコミュニケーションとして成立している「ことば」であっても、正誤の対象になり、点数が付けられてしまう。中学校の教育の中でも、発音やアクセントなどの正誤をさらに強調して教えることになるだろう。
「すべりだいでとろんだの」という子に対し、それは間違いである、と指摘し、言語としての正しさを求めるようなことを続けるならば、その子は話したいと思わなくなるだろう。それは、言語教育の失敗になるだろう。
高校入試にスピーキングテストを導入することは、このようなことから考えると、言語教育を失敗させる強力な手段となるだろう。英語嫌いをどんどん増やすことになるのではないだろうか。
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